【七月の掲示板】
なまんだぶ 蛙鳴蝉噪と聞こゆるや 必ず救うの 弥陀のよび声
【蛙鳴蝉噪】
蝉の鳴き声が日増しに大きくなり、今や夏本番です。
「蛙鳴蝉噪」(あめいせんそう)とは、
蛙や蝉の騒がしい鳴き声を、意味もなくただ騒いでいることや、
うるさいだけのくだらない議論に例えた言葉です。
学生の頃、読み方が試験に出て困った苦い思い出があります。
さて、浄土真宗はお念仏を申すご宗旨です。
特に先輩方は、僧侶もご門徒も常にお念仏を申される日暮らしでした。
そのお念仏の心を知らずに「蛙鳴蝉噪」と聞く人も多くありました。
凡夫が在俗に身を置きながら、たった六文字「南無阿弥陀仏」と称えて何か意味があるのかと。
それこそ、ただうるさいだけで意味がないと。
また、「南無阿弥陀仏」はたくさん称えた方が救われやすく、
死ぬ間際であっても、心を正しくして称えなければなければ
阿弥陀様のお迎えにあずかれないなどの理解もありました。
ところが、親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」は称えたら救われるとか、
称えなかったら救われないといった「救いの条件」ではないことを明らかにされました。
阿弥陀様は、お念仏できたものは救い、できなかったものは救わないという仏さまではなかったのです。
【阿弥陀さまがご一緒】
ではお念仏とは何かというと、
親鸞聖人は、お経や多くの書物から、お念仏は阿弥陀様がご一緒くださるおはたらきのすがた(相)であって、
「ここにおるよ」「独りじゃないぞ」「我にまかせよ、必ず救う」という阿弥陀様のお喚(よ)び声であると教えてくださったのです。
ちょうど、蛙が鳴くのは梅雨の到来であり、蝉が鳴くのは夏の音連れです。
目には見えないけれど、季節の到来があって、はじめて蛙も蝉の鳴けるのです。
つまり、蛙の鳴き声の背後には梅雨のはたらきがあり、蝉の鳴き声の背後には夏のはたらきがあるのです。
蛙が鳴いたら梅雨が来るのでもなく、蝉が鳴いたら夏が来るのでもありません。
蛙が鳴くところには梅雨がすでに来ているのであって、蝉が鳴くところには夏がすでに来ているのです。
同じように、一声「なんまんだぶ」と称えることができるのは、阿弥陀様の到来があればこそです。
お念仏の一声一声は、季節のように私たちの目には見えないけれど、
阿弥陀様のはたらきがすでに届いているすがたなのです。
お念仏をするから阿弥陀様が来られるのではありません。
お念仏をするところには、すでに阿弥陀様が来てくださっていることが知られるのです。
【コロナ禍のなかで】
未だ収拾がつかないコロナ禍にあって、
思い通りにならない虚しさや、会いたい人と会えない寂しさを思う時、
お念仏をされるといいですね。
お仏壇の前で、家事や仕事の時や、車やお風呂の中でも。
また、自宅や病院の眠れない布団のなかで。
周りにはばかれる時は、自分だけに聞こえる小さな声でもいいですね。
いや、胸の内でつぶやいても結構です。
そっと称える「なんまんだぶ…」の一声は、
すでに阿弥陀様がご一緒くださって、
「ここにおるよ」「独りじゃないぞ」「我にまかせよ、必ず救う」の阿弥陀様のよび声でした。
十薬の花咲く庭はひっそりと 妻と会えないコロナ禍続く
(朝日歌壇 さいたま市 吉田俊治 2021年8月1日)