【目の前のこと】
「お浄土も仏さまも信じられない…」「この目に見えるものが全てでは…」これらは誰もが懐く疑問です。だからお寺でお浄土や阿弥陀さまのお話を聞くよりも、目の前の仕事が大事だし、目の前の家族が大事です。なぜなら私達にとって「目の前」という見えるものほど確かなものはないからです。
【形あるものは必ず崩れる】
ところが、目の前の仕事も、家族も変わってゆきます。見えていた形あるものは崩れていき、やがて死という「終わり」が来ます。
いや、だからこそ懸命に守ろうとしますが「目の前」にあったはずの夢や希望が、「死」を前にした時には孤独と不安と絶望に変ります。
【叔母の手紙】
今から一年半ほど前、若坊守の叔母さんが57歳でご往生されました。一人の母としても、お寺の坊守としても将来の夢や希望もあったことと思います。その叔母さんが死を前に「有縁の皆様へ」と題した文章を残されました。
少し抜粋しますと「―さまざまのご縁の尽き果てようとしている身ですが、時としてなお得体の知れない悩みの炎が燃えあがります。その一つ一つを観察してみると、悩みの根幹は孤独だったり、喪失感だったりいたします。わが身を悩ますものは病ではないと気付いた今、病の不安はすっかり消え去ったと同時に、こちらの方がやっかいだったと知らされて、如来の仰せの一言一言が心に沁みわたる今日この頃です―」
叔母さんは目前に迫る死を前にして、家族の中で独り先に命終わっていくという孤独の中に、将来の夢も希望も全て奪われていくといった喪失感の中に、阿弥陀さまの仰せが心に沁みると言うのです。
【如来の仰せ】
その阿弥陀さまの仰せこそ「南無阿弥陀仏」=「まかせよ、必ず救う」のお念仏でした。親鸞聖人はご和讃に「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」とお示しくださいました。
南無阿弥陀仏一つに、この命の往く先もその後のはたらきの現場までもが決定して届けられてあったのです。
その仰せをお聞かせ頂く時、いつどこでどのように命終わろうとも「目の前」にあるのは「死」ではありません。それは「往生浄土」です。
阿弥陀さまは初めから「お浄土も仏さまも信じられない…」と常に疑い、「目の前」のことに振り回されるしかなかった私を目当てに、南無阿弥陀仏と自ら変って入り満ちてくださいました。
尽きることのない苦悩に一言一言寄り添って「死ぬんじゃない、生まれて往く命なんだ」と告げてくださいます。
お浄土も阿弥陀さまも、私が見て、分かって救われていくのではなかったのですね。阿弥陀さまに見られ、知られた私が今ここにご一緒くださる阿弥陀さまの仰せを聞いて救われていく…それが浄土真宗のご法義「往生浄土」のみ教えです。
<第16期大海組連続研修会「往生浄土」 まとめの法話『連研だより』2010年9月掲載>