「仏事」とは、
もともとお経やその註釈書に出てくるお言葉で、
「仏様のお仕事」の意味として使われてきました。
これを今では主に私たちが行う「仏教行事」の略語としているのは、
この仏事の営みのなかで、
阿弥陀(仏)様のお仕事ぶりに出遇ってきたからなのです。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(親鸞聖人/正像末和讃)
ここに親鸞聖人は、阿弥陀様のお仕事とは、
苦しみ悩み涙する私を見捨てることができず、
請うてもない初めより立ち上がって来てくださり、
常にご一緒くださって、
いつどこでどのように命を終えようとも
必ず浄土に生まれさせ仏様としてくださる力、はたらきのことと教えてくださいました。
実は、この阿弥陀様のお仕事ぶりを姿や形で表したのが浄土真宗のお仏壇なのです。
ちょうど、目には見えない風の存在を誰かに伝えて共有しようとする時、
草木やカーテンなどが揺れ動いている様子を言葉で表現したり、
絵に描いて表そうとします。
同じように、お経の言葉も、お仏壇の阿弥陀様のお立ち姿も、
足元の蓮台や、金色が多く用いられているのも、
お供えするお華やお灯明やお香までもが
全て阿弥陀様が私たちを救うお仕事ぶりを姿や形で表しているのです。
そのお仏壇の前で、私たちの先輩方は誕生や結婚式といった家族との出会い、
そして通夜・葬儀・年忌といった家族との別れを仏事として営んでこられました。
それは、家庭を持つということは、かけがえのない家族と出会う場所であると同時に
別れていかなければならない場所であるということを痛いほど知っておられたからでした。
例えば、四苦八苦の一つである愛別離苦という苦悩があるのは、
初めに大切な方との出会いがあるからです。
生まれなければ死はなく、出会わなければ別れもありません。
そうすると、愛別離苦の最たる現場は家の中であったのです。
その家の真ん中にお仏壇を安置し、
人生の様々な節目や出来事を仏事として営み、
阿弥陀様の前で出会いの喜びも、別れの悲しみも受け止めてこられたのでした。
ある時、わが子に病気で先立たれたことがあるご門徒がメールをくださいました。
「これまでの仏事で有り難さや癒されたことを思い出しています。
阿弥陀様の存在を知った今、あれが阿弥陀様のお力だったのかなと思います」と。
死別より十数年、月忌を勤め、お寺の法座に参られ、この連研も受けられました。
その繰り返される仏事のなかで、有難いと思う心が起こり、阿弥陀様の存在や力に出遇っておられるのです。
そうすると、私たちが行う日々の仏事のそのままが、
阿弥陀様のお仕事、お救いの真っただ中にあることに気づかされます。
浄土真宗の家庭での仏事とは、無常の世と命のなかにあればこそ、
移り変わってゆく自身の命や家族の人生の折々に、
決して変わらない阿弥陀様のお仕事ぶりを、自ら営む仏教行事を通して聞き受け、
出遇っていくことにあったのです。
『大海組連研だより』まとめの法話 「家庭でのお仏事」掲載(2023年1月)