【ご讃題】
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる 『浄土和讃』/親鸞聖人
【仏華】
住職になり、仏華を生けはじめて1年と少しが経ちます。
ご門徒の花屋さん、生け花をされるご門徒さん、仏華に詳しい先輩などにコツを聞いて、
生ける際には、本やインターネットを見ながら、頭にあるのは姿、形を整えることばかり。
格好、見栄えにとらわれて、花の命を考えることはありませんでした。
仏華は阿弥陀様へのお供えであると同時に、阿弥陀様から私へ向けられた慈悲の心を表すといわれます。
ある先生が、お花を仏前にお供えするのは、花の命をいただいてまで阿弥陀さまのお慈悲を仰がせていただくのだと教えてくださいました。
花のもつ色の美しさや形の優しさが、そのまま阿弥陀さまのお慈悲を表しているのです。
山村暮鳥「ある時」
自分はみたー
遠い むかしの 神々の世界を
小さなをんなの子が しきりに 花に お辞儀してゐた
(参照:行信教校発行『一味』若林眞人師 法話「花」)
仏華のお供えが、そのまま阿弥陀さまから私へのはたらきかけとしてあるから、
お花の正面は、手を合わせる私たちの側に向けてお供えするのですね。
【阿弥陀様の慈眼】
さて、先日のこと。
蝋梅を用いるのに不格好に見えた枝を切り、それを新聞紙に包めて置いていました。
そして、捨てようかと掴みかかったとき、細い枝から黄色の一輪がちょこっと顔をのぞかせていました。
仏華を生け始めてわずか一年ほどの私の目にかなわぬと、捨てられた一枝の蝋梅。
ふと、阿弥陀様はどうご覧になるだろうかと思った時、
この九条武子様(※)の歌を思い出しました。
すてられて なお咲く花の あわれさに
またとりあげて 水あたえけり
【捨てられる命】
捨てられるのは花だけではありません。
人間も無常の世にあって、老、病、死と衰え、力をなくしていかねばなりません。
その時、社会から、ときに家族からも疎まれてゆくこともあるのではないでしょうか。
若い方であっても、勉強や運動の得手不得手によって、
受験や就職によっても、
力が無い者、弱い者が、切り捨てられていくことがあるでしょう。
宗教の世界でも、神や仏に背く者は捨てられていくのかもしれません。
捨てられるどころか、罰を与え、地獄に落とすという宗教もあると聞きます。
また、試験のように、難しい条件、例えば厳しい修行や学問の可否によって線引きがなされ、
裁判のように、犯した悪を責めて裁くといった宗教もあるでしょう。
【捨てられない仏様】
今、花を切り捨てる私は言います。
「もう充分咲いて、枯れそうだから」「新しいお花を頂いたから」「もう季節に合わないから」「次の法要があるから」・・・との理由をつけて。
それでも、花はまだ生きていて、一輪、また一輪と最後まで咲こう、咲こうとするのです。
捨てる側には、もっともらしい理由があります。
でも、捨てられる側にはそれを受け止める力はなく、情けなさに沈みながらも生きよう、生きようとするのです。
そんな、誰の目にもとまらずに捨てられた花の命を拾い上げ、水を与える方がありました。
それが阿弥陀様です。
【摂取不捨】(せっしゅふしゃ)
お釈迦様は『仏説観無量寿経』に「念仏衆生 摂取不捨」(念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)と示され、
親鸞聖人は、
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
と詠まれました。
親鸞聖人は、このご和讃の「摂取してすてざれば」の左側に「ヒトタビトリテナガクステヌナリ」(ひとたび取りて永く捨てぬなり)、また「モノノニグルヲオワエトルナリ」(ものの逃ぐるを追はへ取るなり)と書き添えられます。
たとえ世界中の全ての者から、見捨てられてゆく命であっても、ただおひと方、決して見捨てはしないと立ち続け、抱き取ってくださる仏様であったかと涙されたのです。
背き続ける命(私)を見放すことができないと、どこまでも追いかけ、待ち続け、
弱弱しく力無き命(私)を絶対に見捨てはしないと、いつまでも抱き続けてくださいます。
四方八方、そして上下のあらゆる世界。
たとえどんなに小さな世界の片隅であっても、衆生(私)に称えられる念仏となって、「独りじゃないぞ」と告げてくださいます。
ここに、見捨てられていく一輪の花の、一人の命の所在がありました。
こちらが縁によってどのように変わろうとも、決して変わらぬお慈悲。
私が忘れても忘れても、私一人を決して忘れたまわぬお慈悲。
それを、自ら供えた仏前の花や、切り捨て新聞紙に包んだ一輪の花に聞くのです。
(終わり)
※如月忌
今月、2月7日は「如月忌」
九条武子様の祥月命日です。
関東大震災に被災されながら、本願寺を動かし、支援物資の手配や救護所、孤児院の設立などに奔走され、それがたたって42歳、敗血症を患いご往生なされたのでした。
九条武子様の命に対する眼差しは、ご自身が阿弥陀様のお慈悲に包まれてある慶びからであったでしょう。