浄土真宗のお盆
<ご讃題> 願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ
すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり (高僧和讃/親鸞聖人)
<意訳> 全ての命を仏に成らしめるという誓願によって建立された阿弥陀さまのお浄土に往生したものは、
すぐに仏さまと成り、大きなお慈悲の心をもってこの世に還り来て、
常に私たちをお念仏の道へと導いてくださるのだ。
さて、世間ではお盆には先祖の霊魂が帰ってきて、
お盆が終わると元の世界に戻って往かれるという考えが一般的です。
ところが、浄土真宗では先立たれた方は霊魂として迷っておられるのではなく、
仏様と成られたと受け止めます。
なぜなら、浄土真宗で用いるお経(※1)には、
私たちの命は、 常にご一緒くださった阿弥陀さまに抱かれて、
お浄土(※2)に「往生」し、「成仏」することが示されているからです。
また、阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏様になると、
すぐにこの世(※3)に還って来て、仏様としてご一緒くださることが示されています。
そうすると、先立たれた方はお盆という期間限定ではなく、
今も、そしてこれからもずっと皆さんとご一緒くださる命と成られているのです。
ですから、私たちはどこか遠くに、
先立たれた方の在りし日の姿を探すことはなかったのです。
お盆やお彼岸、またはご法事などの様々な仏縁のなかに、
合掌し、お経を拝読し、お念仏(※4)を称えるところに、
すでに仏様と成って一緒にいてくれているのだと気づかされてゆくのです。
往きしひと みなこのわれにかえりきて なもあみだぶつと称えさせます(詠み人知らず)
以上
※1 浄土真宗で用いるお経
浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)
※2 お浄土
阿弥陀仏の浄土は、古代インド語の経典にsukhāvatī(スカーヴァティー/幸福のあるところの意味)とあり、
これが西方極楽浄土 無量光明土 安楽などと漢訳されてきました。
※3 娑婆
古代インド語sahāの音写語で、意味は「(堪)忍土」と訳された苦悩に耐(堪)え忍ぶ場所のこと
※4 念仏
浄土真宗において「なむあみだぶつ」と念仏することは救いの条件ではありません。
鶯の一声には必ず春のはたらきが届いているように、
お念仏の一声に、阿弥陀さまや先立たれた方々が仏様と成ってわが身にご一緒くださり、
はたらいておられることを知るのです。