浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

浄土真宗のみ教え

「悪人正機」大海組連続研修会『連研だより』

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 廻向を首としたまひて 大悲心をば成就せり

(『正像末和讃』)

「悪人正機」は阿弥陀様の智慧と慈悲の極みを示すお言葉です。悪人とは他人のことではありません。阿弥陀様からひとしお救いの焦点を当てねばならないと見抜かれた「私」のことでありました。

 

その私は自らを悪と見る目を持ちません。法律的、道徳的な悪であっても自分以外に悪の原因を探し、時代や場所によって都合良く悪の基準を変えてきました。実はその離れられない自己中心性を「煩悩」と言います。そして煩悩を抱える危険も恥も知らずに、結果として苦悩の中に永く沈んできたのです。その「悪人」である私は、世間的な価値観や多くの宗教観の前では価値無き者、救いようのない者と切り捨てられていくのかもしれません。

 

しかし、その私目当てに阿弥陀様は涙してご本願を成就して下さいました。ご本願にはお救いの目当てとして「十方衆生」と誓いつつ「唯除五逆誹謗正法」とお示しです。つまり「全ての者を救う」と誓いつつ同時に罪の重さを知らせておられます。それは、衆生の中でも最も重い罪を犯しては苦悩に沈んでいく私一人を放っておけないと、どこまでも追いかけて、決して捨てないが為でありました。

先哲のお喩えですが、ある父親が遠くへ嫁がせた娘を心配し一目会いたいと思う。そして嫁ぎ先へ地元の村祭りの案内状を送ります。その宛名は「家内御一同様」。しかし、その案内状を送った父親の心底とは「御一同様」がそのまま「我が娘一人」を目指していました。今、阿弥陀様のご心底を尋ねれば「十方衆生」がそのまま「私一人」であります。阿弥陀様は自他を超えた智慧で、すべての衆生をみな我が子と見られます。しかし、その中にあって最も手がかかり心配な者にこそ、親は悲しみ放っておけないとひとしおかかり果てていくのです。

 

聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ…(『歎異抄』後序)

 

真実不変のお救いに出遇う時、初めて私の愚かさが見えます。しかし、その姿を責めて裁くのではなく、そのお前が何より目当てであるぞとお聞かせ頂くとき、慚愧と歓喜の信心の行者と育てられていく‥。それが「悪人正機」という浄土真宗の大切なご法義でありました。

 

 

<第17期大海組連続研修会「悪人正機」まとめの法話 『連研だより』2013年3月掲載>

浄土真宗本願寺派(西本願寺)-親鸞聖人を宗祖とする本願寺派