【白骨のご文章】
「たれのひとも早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」蓮如上人は白骨の御文章を顕して、誰もが早く命の往く先を阿弥陀様のお浄土であると聞き受けて下さいとお示し下さいました。それは、縁次第では今にも命を終えていかねばならない私たちに、後生の一大事は二の次三の次がない、ただ今私の大問題であるとの仰せです。
【不急の事】
ところが、私たちは健康で元気で人生がうまく運んでいる時には「命の往く先」にあまり関心がないのかもしれません。「死んだらお終い」ともよく耳にします。そんな私たちにお釈迦様は「世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍う」(『仏説無量寿経』)とお示しになられました。
そこには、急がなくてもよいことを争って、欲に追い回されて少しも安らかな時がないとあります。確かに働いてお金を稼ぐことは大事なことです。衣食住が足りていることなど世の中には大事なことは沢山あります。
しかし、それらは「死」を前にした時、全て色褪せ、その価値を失い、私の生死の苦悩には何一つとして間に合いません。死を前にした時、私たちは一体何を想うのでしょうか。それはどうやら健康で元気な時とは変わっていくようです。
【帰る場所の故郷】
ある時、近くの公民館に音楽家の方がお話とコンサートに来られました。その方は、全国のホスピス病棟を歌のボランティアで回られたそうです。その際「あなたは命を終える時、もし歌が聞けるとするならば、いったいどんな歌が聞きたいですか」と尋ねて回られました。すると全国で最も多かった答えは、童謡の『ふるさと』であったというのです。
故郷(ふるさと)とは、友達と駆けずり回った懐かしいあの山、あの海、あの川のことです。地方の方であれば田畑のある風景、都会の方であれば、電車が走り、家が多く建つ風景が故郷でしょう。そして何よりも、あの生まれ育った実家のある風景。そこには、父や母や兄弟が、そして祖父や祖母がいて、喧嘩したり笑いあったりした懐かしい家がある。それが故郷の中身です。
そうすると、私たちはいよいよたった独り、死を前にした時にいったい何を心に思うかといえば、それは「ふるさと」を想うということです。つまり健康で元気な時にあったような「無関心」でも「死んだら終わり」という心でもなく、私たちは「帰る場所」を想って命を終えいくということです。
【さあ、帰ろう】
『ふるさと』の歌詞には「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」とあります。帰郷する者の中には、人生に掲げた目標を成し遂げたと意気揚々と帰る人もいるでしょう。一方で、夢や仕事や家族のことなど、志半ばで意気消沈して帰る人もいます。
しかし、故郷は手ぶらで帰っていける唯一つの場所です。親鸞聖人は善導大師のお言葉を受けて「帰去来(いざいなん)、他郷には停まるべからず。仏に従ひて本家に帰せよ」(『教行信証』)とお示し下さいました。本家とは阿弥陀様のお浄土のことです。そして、「帰る」とは家や故郷に向かう時に使う言葉でした。
【後生の一大事は今生の一大事】
今、お預かりしていますご門徒の中には、病院やホスピスなど長く家を離れて暮らされている方や生まれ育った故郷を離れて息子や娘夫婦がいる都会で暮らされている方も多くおられます。すでに親を見送り、お連れ合いやお子さんに先立たれた方も多くいらっしゃいます。
そんな私たちに、親鸞聖人は「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり」(歎異抄)「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」(御消息)と仰せ下さいました。
誰もが死にたくはないし、この世を離れがたい思いを抱えながらも必ず命が終わる時を迎えなければなりません。
しかし、今ここに「南無阿弥陀仏」と阿弥陀様がずっと先手先手にご一緒下さって、必ずお浄土に連れ帰ると告げて下さいます。
あの懐かしい者たちが先に往って待っているお浄土にこの度帰らせてもらう。お念仏のお心を今聞いて、後に帰るお浄土を想う。
家に帰るのは後ですが、後に帰る家のあることが今の安心となっているのです。
<本願寺新報2017(平成29)年12月1日号「みんなの法話」掲載>