【おんせん県おおいた】
私の住む大分県には沢山の温泉があります。そこで、県が観光PRの為「おんせん県」を名のり、商標登録を試みました。しかし、温泉なら他県にもあるという理由で許可が下りず、今では「おんせん県おおいた」としてやっと登録がかなっています。
【阿弥陀さまのお名前】
ところで、私たちのご本尊である阿弥陀とは、命と光に限りが無いというお名前です。古代インド語で書かれた経典のアミタは無量と訳され、アミターユスは無量寿、アミタ―バは無量光と訳されました。そこに「南無」と「仏」をつけて直訳すれば「まかせよ、無量の命と光の仏に」となります。しかし、実は数多におられる仏様は皆、無量の命と光のおさとりをお持ちなのです。では、なぜ阿弥陀様だけがご自身のお名前とすることができたのでしょうか。
【わたしを救うためのおさとり】
それは、言うなれば無量の命と光はご自身の為ではなく、全ては私たち一人ひとりを必ず救う為という大きな違いがあったからです。親鸞聖人はご和讃に「摂取して捨てざれば阿弥陀となづけたてまつる」と示され、その左横に小さな文字で「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」「ひとたびとりて永く捨てぬなり」と教えて下さいました。阿弥陀様とはお救いに背き続け、逃げ続ける私をどこまでも追いかけて抱き取ってくださる仏様であり、一度抱き取ればいつまでもその手を離さず、捨てられることは決してない仏様ですと慶ばれるです。
【お仏壇の前で】
あるご門徒さんが、奥様に先立たれ満中陰を迎えられた時のことでした。お仏壇の前で「この頃いつもここにいるんですよ」と自分の座っている座布団を指されました。所帯を持ち、家を建てる際に両親から仏壇を勧められたが「そんなもの必要ない」と断った。でも仏壇を迎えれば建築費を援助すると言うので仕方なく求めた仏壇です。しかし、「…その私が今ここを離れられないんです」と少し恥ずかしそうにして涙ぐまれるのでした。
【今、ここ、わたしのところへ】
そうすると、私たちの心は縁によって変わるのですね。ことに大切な人や自身の死を前にした時、強かったはずの心はいとも簡単に崩れていきます。その時のどうしようもない痛みはいつだって今ここにいる私の問題です。誰にも代わってもらうことも、分かってもらえることもかないません。そうして、人知れず涙する私をどうしても放っておけないと涙して立ち上がり、無量の命となってまでいつでも(今)、無量の光となってまでどこでも(ここ)、まかせておくれ、必ず救うとご一緒下さる唯一無二の仏様が阿弥陀様であったのです。阿弥陀様にもお浄土にも背を向けていたその時から、ずっと私の為に「南無阿弥陀仏」と名告り続けてくださっていたのでした。
【名前ははたらき】
さて、「おんせん県おおいた」という不本意の登録名。知事はこの方が「地域が特定される」と前向きです。観光客が大分を目指して来てくれることを期待してのことです。しかし、いつでもどこでも誰にでも出向いてゆかれる阿弥陀様には、地域を特定する名前に用事は無かったのです。
<『築地本願寺新報』2020年7月号掲載>