1173年 (平安) |
1歳 | 京都の南(現在の伏見区日野)、藤原氏の一門である日野家にご誕生。幼小にして母と死別。平家衰退、養和の大飢饉の頃、父やご兄弟とも離ればなれとなられたという。 |
1181年 | 9歳 | 叔父に連れられ、天台僧、慈円僧正のもとで出家得度。(青蓮院とも伝えられる)この時「明日ありと思ふこころのあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と、無常ゆえに急ぎさとりを求めねばならないというお心を詠まれたという。 以後20年もの間、比叡山にて持戒修学を徹底されるが、修行を重ねるほどにご自身のみならず、全ての命が迷いを離れて仏に成ることの得難きことを痛感される。 |
1201年 (鎌倉) |
29歳 | 比叡山を降り六角堂に100日間の参籠。95日目の暁、聖徳太子の示現によって法然聖人の門下に入る。そこで阿弥陀仏の本願には賢愚、男女、出家在家等々が選別されず、本当に全ての命を仏様と成らせてくださる他力念仏のみ教えに出遇われる。また、この頃に奥様の恵信尼さまと出遇い、御結婚されたと考えられる。 |
1207年 | 35歳 | 他力念仏隆盛を危ぶむ他宗の間違えた理解や訴えなどにより、朝廷が法然門下へ他力念仏停止、さらに門弟数名に厳しい刑(斬首、流罪など)を下す。 親鸞さまも僧籍を剥奪され、厳冬の越後(現在の新潟県)に流罪となるも、朝廷によって僧侶であるのではい、しかし俗にもまみれないとして「非僧非俗」「愚禿親鸞」と自らの立場を名のられた。そして、阿弥陀仏の救いのただ中にお念仏申され、恵信尼さまやご子息と共に在家生活を営まれてゆく。 |
1214年 | 42歳 | 1211年に流罪赦免されるも法然聖人もなく、他力念仏停止のままの京都へは帰らず、ご家族と共に関東地方へ約20年にも亘る伝道教化の旅に出られる。 |
1224年 | 52歳 | 再三にわたって大飢饉等の困難に見舞われるも、「名号のほかに何の不足もない」と阿弥陀仏の救いの確かさにいよいようちまかせていかれた。 主著「教行信証』の草稿本成立(国宝)。完成は帰洛後の一歳頃と伝えられる。現在この草稿本成立をもって浄土真宗の立教開宗とする。 |
1232年 | 60歳 | この頃、未だ他力念仏への弾圧が残る京都へ戻られる。それから約30年、ご門弟とはお手紙や面会などで常に交流しご教化され、多くの著作を興されて浄土真宗を広く頭かにされた。 |
1256年 | 84歳 | 関東で他力念仏の教えを間違える者や不安に思う者が増え、ご息男の善鸞さまを派遣されるが、逆に間違った教えを説いた為に断腸の思いで親子の縁を絶たれる。これを契機に老衰の中にも様々な御聖教(恩徳讃などもこの頃)を著されてゆく。 |
1263年 | 90歳 | 1月16日(新暦)の正午頃、子や弟子の見護る中、お念仏を称えつつご往生される。この時、浄土に生まれて仏様に成り、私たちのお念仏となって還ってくることを周囲の者に申された。それが「御臨末御書』として現在に伝わり、「報恩講の歌』のもととなっている。「1人いてしも喜びなば二人と思え二人いて喜びなば三人なるぞその1人こそ親鸞なれ...」 |
開基 | 宗温 | 木下小次郎宗温、文明年間(1469~1486)現大野郡明尊寺(現真宗大谷派)にて得度し真宗に帰依する。その後上京し、山科本願寺にて本願寺八代目蓮如上人の教化を受け六字名号数代を頂戴する。元亀3(1572)年寺号を求め再度上京するも播州室津で盗難に遭い志を果たせず。 ※臼杵藩の記録によるが、寺号を求めた年代、もしくは住職の名に再考の余地がある。 |
二世 | 宗栄 | 慶長10(1605)年5月、本願寺十二代准如上人より寺号「妙蓮寺」を賜る。同年7月5日木仏授与。慶長4年7月23日 顕如上人尊像、元和6(1620)年7月3日 聖徳太子尊像、同年7月2日 七高僧尊像を准如上人より賜る。 |
三世 | 宗傳 | |
四世 | 宗玄 | 寛永15年2月13日 往生 98歳 |
五世 | 宗清 | |
六世 | 宗徳 | 正保4年7月21日 往生 42歳 |
七世 | 宗圓 | 慶安3年11月15日 往生 31歳 |
八世 | 宗岸 | 正徳2年10月19日 往生 |
九世 | 宗俊 | 元文2年5月22日 往生 67歳 |
十世 | 宗雲 | 妙蓮寺中興の僧と伝わる 延享5年4月3日 往生 44歳 |
十一世 | 宗正 | 宝暦三(1753)年から宝暦七(1757)年にかけて現在の本堂を建立する。 明和元年5月20日 往生 35歳 |
十二世 | 宗佑 | 寛政四(1792)年三月の大地震で被害を受けた本堂大屋根の普請を行う。 寛政七(1795)年上棟式。文化3年1月7日 往生 59歳 |
十三世 | 宗哲 | 文化4(1807)年より東本願寺への改派騒動。文政12年8月25日 往生 45歳 |
十四世 | 宗巌 | 文政12年5月7日 往生 30歳 |
十五世 | 宗仁 | 本願寺の余間の官に任命される。天保3年3月7日 往生 19歳 |
十六世 | 宗秀 | 天保14年11月14日 往生 29歳 |
十七世 | 宗廓 | 嘉永元(1848)年、現山門を建立する。(住職幼少期) 明治8年2月25日 往生 40歳 |
十八世 | 宗靖 | 広瀬淡窓や博多万行寺の七里恒順和上に師事。白骨の雅号を持ち、詩書に秀でた。「大分県画人名鑑』にその名がある。また、維新十傑の大村益次郎と刎頸の交流を持ち、維新後は明治新政府の内務省及び教部省に出仕。明治六年本願寺に入り、その命によりキリスト教を視察する為に長崎に赴く。境内の石碑はその徳を秋月新太郎が記したもの。 明治24年6月10日(新暦) 往生 50歳 |
十九世 | 常渓 | 佐伯西音寺より入寺学階助教 明治32年10月24日 往生 41歳 |
二十世 | 本然 | 大正3年5月18日 往生 33歳 |
二十一世 | 天然 | 昭和12年書院落成 昭和57年4月15日 往生 86歳 |
二十二世 | 猶興 | 昭和17年住職継職本堂大屋根の修復 平成7年5月26日 往生 83歳 |
二十三世 | 道生 | 平成19年本堂の大修復、庫裡・諸堂を新築する。 |
二十四世 | 啓生 |
「妙蓮寺山門過去帳」
「木仏之留御影様之留」
「西光寺古記」
「豊後国諸記上」(本願寺資料集成)
「松林山端坊の歴史」(山口県萩市端坊編)
「寺社考」寛保元(1741)年2月 臼杵藩士 大田六郎兵衛重澄著
、「温故年表録]臼杵藩士 加島弥平太英国著
「豊後国志」岡藩士 唐橋世済編集
「臼杵小艦大全」臼杵城下八坂神社鶴降戊申編集江戸後期の国学者
「白水郎」「小佐井地区の寺院」御門徒 「内田忠清・内田昭義 寄稿
「歴史散策と家島考』御門徒 三浦正夫著
「大分県画人名鑑」 他
臼杵藩寺社奉行であった大田六郎兵衛重澄が著した『寺社考』や、臼杵藩士加島弥平太英国の著した『温故年表録』によると、一乗山妙蓮寺は、室町時代の文明年間(1469~1487)に、豊後国海部郡小佐井郷里村の庵寺の住人であった木下小次郎が、浄土真宗に帰依したのが始まりであると記されています。
浄土真宗は、阿弥陀様の本願成就のみ教えです。本願成就とは、阿弥陀様が法蔵菩薩であった時に、「あなたを我が国に仏様として生まれさせることができないなら、我も決して阿弥陀仏とは成らない」という誓願(衆生往生かけものの御本願)が、法蔵菩薩の永く果てしないご修行によって成就したもので、すでに私達が気づくよりも、お願いするよりも先に、全ての生きとし生ける命のうえに「南無阿弥陀仏」(我にまかせよ必ず救う)の喚び声となって、いつでも、どこでも、どんな時であっても、ご一緒くださってあることを言います。すなわち「なんまんだぶ」とお念仏をすることは、救いの条件ではありませんでした。一声のお念仏は阿弥陀様がいつでもどこでも常に私達とご一緒下さる姿であるというのが浄土真宗のみ教えです。
さて、小次郎が浄土真宗のみ教えを初めに聞いたのは、現在豊後大野市にある法濤山明尊寺(本願寺第六代巧如上人の時代に真宗寺院として存在したという。現在はお東のお寺)であったと言われています。
その後、浄土真宗をさらに正しく聞きたいと決心し、小次郎は京に上ります。そして、当時は京都の山科にあった御本山本願寺にて、第八代宗主蓮如上人(1415~1499)に会って、直接浄土真宗の教化を受けました。その時小次郎は、蓮如上人より真筆の六字名号「南無阿弥陀仏」のご本尊と、法名「宗温」を賜り、やがて豊後に帰郷しました。文献によれば、その後1573(元亀三)年、寺号を望み上京を試みますが、途中播磨の国(兵庫県)で盗難に会い、志を果たせずして無念の中に帰郷しています。しかし、宗温の年齢等を考えると、寺号を望み上京したのは宗温の子、妙蓮寺第二世宗栄ではなかったかとも考えられます。
時を経て、関ケ原の戦いが終わり、江戸幕府が開かれて世情が落ち着きをみせた1605(慶長10)年5月、ついに第十二代宗主准如上人(1577~1631)より寺号「一乗山妙蓮寺」を許され、木仏の御本尊が下附されました。
現在の本堂は、妙蓮寺第十一世宗正の時、1753(宝暦3)年から4年の歳月をかけてご門徒の日役と寄進によって建立されました。宗正はその7年後、三十五歳で往生しています。
十二世宗祐の時には、火事、落雷、強風、洪水などの災害が数年間続き、1792(寛政3)年3月に大地震が発生。本堂の大屋根が大破しましたが、3年後の1795(寛政七)年には上棟式が行われ、修復を終えています。修復にあたったのは臼杵の大匠、山崎平内重矩であったことが分かっています。
十五世宗仁の時、妙蓮寺は御本山の余間の官に任ぜられています。しかし、宗仁は十九歳で往生し、十六世宗秀は二十九歳で往生しています。二代続けて住職が若くして往生しましたが、宗秀の子、宗廓が幼少でありながら十七世を世襲し、妙蓮寺を再興していきます。
現在の山門は、その宗廓が1848(嘉永元)年に建立したものです。しかし、これは父の往生から5年後のことですから、宗廓を支えたご門徒の妙蓮寺再興の力強い思いが威風堂々たる山門の建立を成せたことを想像できます。
山門は、本堂の向拝(本堂入口正面)の直線上にあり、参道より山門をくぐれば、すぐに本堂の中心にある御本尊の阿弥陀様に御礼ができるように建てられています。また、山門の彫刻は見事で、破風にも趣があります。瓦の葺き方には「輪違い」という幾何学文様を呈した伝統工法の本葺きで成されてあり、聞法の道場に人々を迎えるにあたって荘厳な風格を醸し出しています。
ところが、この宗廓の時に悲しい事故がありました。1854(嘉永七)年10月18日、宗廓は京都へ御本山参拝の為に鶴崎を出航しましたが、19日の夜、現在の山口県熊毛郡上関町八島の沖合にて突風に遭い、船が破損。宗廓は助かりましたが、付き添いの僧、遠慶が往生しました。ご門徒も同船していたとすれば、多くの方が命を落とされたことでしょう。この葬儀を12月3日、妙蓮寺にて執り行ったといいます。
宗廓は四十歳で往生し、十八世を継いだのが、「白骨道人」の名で知られた宗靖です。妙蓮寺ご門徒のいくつかのお家には、今も宗靖(雅号が白骨)の書画が掛けられています。
福岡県久山の安楽寺というお寺にお説教で招かれた際、偶然にも宗靖の書を見つけました。そのお寺の床の間には「大心海」と書かれた書が今も大切に掛けられてあり、とても嬉しく思いました。『大分県画人名鑑』には宗靖の書画が掲載されています。
宗靖は、廣瀬淡窓や帆足万里の一番弟子である米良倉次郎東嬌に師事し、佐賀藩の大隈重信や長州藩の大村益次郎、長三州、佐伯藩の秋月新太郎とも親交が深くありました。廃藩置県後には明治新政府の内務省及び教部省に出仕し、後に本願寺の官僚として長崎までキリスト教の視察など宗務に邁進しますが、妙蓮寺のご門徒や母親の体調などを心配して帰郷しています。御法義の上では、博多万行寺の七里恒順和上(若いころ中津にある浄光寺にて、浄土真宗の教学を福沢諭吉と共に学んでいます)に師事。〝蓮谷和上〟と称され、今でも様々な文献にその名が見られます。
さらに宗靖は、戸次にある妙正寺の真宗大谷派の講師(本願寺派では和上)で、中国布教の先駆者あった小栗栖香頂師と宗派を超えた刎頸の仲でした。数年前、ある古書店で、大正9年に出版された『宗意安心問題講述』(本願寺派勧学・雲山龍珠和上著)と出会い、そこには『病床閑話』という題で二人の浄土真宗の教学についての問答が掲載されてあるのを発見しました。
その文献によると、宗靖は病床の香頂師を見舞いに、妙正寺まで馬で訪ねています。これは明治5年に長崎で別れて以来の再会で、お互いの身の心配より始まり、やがて会話は教学上の問答へと展開します。非常に強く、時に激しく問答を繰り広げますが、必ずその出拠、出典を明示した上での問答となっており、宗靖の教学研鑽の深さが良く感じられます。最後は笑いあって、「お互いの〝安心〟(浄土真宗の信心のことで、あんじんと読みます)は異ならず、往生の暁には、共に同じ阿弥陀様のお浄土で親鸞聖人に謁しよう」と誓って、問答を終えています。そして、「酒を酌んで念仏す、返景の沈むを知らざるなり」と記されてあり、時代の変革期に奔走した僧侶の中には、深い教学研鑽と仏祖讃仰の思いがあったことが分かります。雲山和上はこれを教学上の「好資料」と、高く評価しています。
宗靖は五十歳で往生し、後に秋月新太郎が親交を偲んで碑文を顕しますが、その碑文が現在、妙蓮寺境内に建っている石碑です。
明治、大正、昭和、平成と、戦前戦後をご門徒と共に乗り越え、妙蓮寺はこの度、二十四世を数えます。では、なぜ妙蓮寺の開基である木下小次郎(後の宗温)が浄土真宗に帰依したのかを、ここで考えてみたいと思います。
蓮如上人に帰依するまでの妙蓮寺は、天台宗であったと伝えられています。当時の天台寺院は豊後に広く存在しました。また、その多くは国東半島に見られる天台寺院のように山中奥深くに存在したのですが、それは世間から離れ、家(家族)を捨て、欲を棄てて修行に打ち込む為でした。
これを「出家仏教」といいます。現在でも教義的に家族を持っての仏道、すなわち「在家仏教」がみ教えより認められるのは、浄土真宗のみといわれます。
当時の天台宗は、本山である比叡山延暦寺がそうであったように、女人禁制でした。お寺はもちろん、女性は山に立ち入ることさえ、許されませんでした。これは明治5年まで続きます。その背景には、男性修行者が家族を捨て、欲を棄てる為に女性は邪魔になるといった考えもありますが、当時根強くあった「女性蔑視」の価値観も大きく影響していました。男性出家者の修行の為の女人禁制という理由が薄弱なのは、親鸞聖人がおられた頃の比叡山の天台僧の多くが、(現在は滋賀県の坂本という地域にあたる)比叡山の麓の村に家を持ち、妻や子どもを住まわせていたからだという説があります。鎌倉時代に著された『沙石集』には、後白河法皇の言葉として、本来家族を持たないはずの出家仏教者が結婚を隠して生きていることを皮肉って、「隠すは上人 せぬは仏」という文もあります。
妙蓮寺は、天台宗には珍しく山中に建てられたお寺ではなく、里村という平地にありました。周囲には家族の営みが点在し、多くの老若男女が家業として田畑を耕し、漁をし、商いをして暮らしを立てていました。そこは、家族同士の賑やかな声が聞こえる場所であると同時に、出会いの数だけ死別の悲しみもありました。出会いの喜びが大きければ大きいほど、死別の苦しみ、悲しみは深さを増すといった逃れられない現実がありました。ずっと助け合い、支えあって生きてきた家族、老若男女、子や孫たちの愁嘆の声が、里村の庵寺まで届いていたことでしょう。
その時、出家在家の違いや、男女の違い等によって救いに区別、差別はありえないという浄土真宗、阿弥陀様の御法義が、聞こえてきたのでした。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、在家者(家族や職業を持って暮らす者)、そして女性には冷たい当時の仏教に対し、「本来の姿とは何か?」と、疑問を持ち続けられたようです。
幼少に母と死別し、わずか九歳の時に父や兄弟と生き別れになって、独り天台宗比叡山延暦寺に入れられました。それから20年もの間、命がけのご修行をされた親鸞聖人でしたが、「此処には自身や全ての命が必ず救われてゆく仏道はない」と、山を下りられました。そして法然聖人のお導きによって、阿弥陀様のお救いに出遇われ、お念仏申し、仏様としてお浄土に生まれて往くという姿を地域社会、在家生活の中に体現されたのでした。
出家でなく、山中でなく、地域社会で生き、家族を持って生きる。これは、出会いと別れを必ず繰り返す場所に身を置くということです。
お釈迦様が示された「愛別離苦」という人間の根本苦悩は、まず初めに出会いがなければ起こらなかった苦悩でした。親鸞聖人のご法事を「報恩講」と名づけられた本願寺第三代覚如上人は、「人間の苦悩の中で愛別離苦、これもっとも切なり」と仰います。
その変えようのなかった苦しみと悲しみを初めから目当てとし、活き場とし、男女老少善悪の人を選ばず、出家在家を選ばず…。願うよりも先に自ら立ち上がり、涙ながらに「まかせよ、必ず救う」と、かかりきって下さるのが、阿弥陀様です。このことを生涯かけて教えて下された方こそが、親鸞聖人だったのです。
今、私たちは、「愛別離苦」の最たる現場に身を置きます。この地域社会で、この家族の中で生きています。だからこそ、私たちの先輩方はその真只中に、聞法の道場であるお寺を建てられ、家の中心には阿弥陀様のお仏壇まで安置し、どんな困難な時代もお念仏に支えられ、生きてこられたのでした。
そうして私たちの命は、今ここにあるのです。
さて、多くの家族が暮らす里村の庵寺を護っていた小次郎の耳には、浄土真宗のご法義と共に本願寺第八代蓮如上人のお噂が聞こえてきました。これには諸説ありますが、幼い頃に生き別れた蓮如上人の御尊母様は、豊後の出身と伝えられてきました。そこで御門主と成られた蓮如上人は、お母様を探させるために弟子である浄念を豊後に派遣したのです。浄念は国東半島の臼野というところにとどまり、そこでお寺を建てました。これが現在の光徳寺というお寺です。
なぜ臼野に建てたのか。実は、この地こそが生き別れとなった蓮如上人のお母様がおられたところだったからです。現在は小さな墓石が建っており、そのお墓は近江の国(滋賀県)よりやってきた瀬々家(元は膳所家)が代々護っておられます。この瀬々家のお仏壇には、今もなお蓮如上人直筆の六字名号「南無阿弥陀仏」が掛けられています。さらにこの地域は、「望都」と言われてきました。これは〝都を望む〟と読むことができ、学者の中でも有力な裏付けとなっています。
このように、蓮如上人の御尊母様が豊後の出身ということが、九州においていち早く浄土真宗が広まるきっかけとなり、小次郎が浄土真宗という御法義に出遇うご縁になりました。
小次郎は、様々な仏教に関する悩みや疑問を持って、京に上ったことでしょう。そこで蓮如上人に会い、ご教化を頂いて浄土真宗に帰依し、蓮如上人より「南無阿弥陀仏」の六字本尊を数代頂戴したのです。現在は、大小三幅が保管されています。
蓮如上人は浄土真宗の僧侶であり、御門主でありましたから、親鸞聖人にならって家族を持ってお念仏の道を歩んでおられました。家族を持って生きる以上、「愛別離苦」の悲しみ、苦しみから逃れることはできません。蓮如上人は奥様に先立たれ、お子さまも次々と先立たれていかれました。ご自身が生きている間に、男女合わせて七人のお子さまに先立たれておられます。
山科という京の街中に本山を建てられていた蓮如上人のもとには、同じように家族を持って生きるご門徒の悲報が常に聞こえてきました。皆さんが良く知る『御文章』の「白骨章」は、蓮如上人が七十五歳の時に書かれた御手紙であるとされています。
その謂れとして伝わっている話があります。
山科本願寺近くに居を構えていた、青木民部というご門徒がおられました。その青木家の一人娘、清が十七歳の時に祝言をあげることになったところ、その当日、清が急死したのです。原因は分かっていません。突然のことに驚き、嘆き苦しんだご両親は、初七日を待たずして二人とも命を終えていかれたとのことでした。それを伝え聞いた蓮如上人は、涙ながらに筆をとり「白骨章」を書きあげられたといわれています。蓮如上人は、この時すでにご自身のお子さま5人を見送っておられました。
小次郎は、この話を蓮如上人から直接聞いたのでしょうか。蓮如上人やご門徒の深い悲しみのなかに、躍動する阿弥陀様のお慈悲のありだけを感じ取ったのでしょうか。
阿弥陀様の救いの願いと、はたらきの前には、老若男女、出家在家、仕事などの区別・差別はないという、親鸞聖人のみ教えを聞き、いつどこでどのように命尽きようとも、平生よりご一緒くださる阿弥陀様にいだかれて、お浄土に仏様として生まれ往くという浄土真宗のお法に、きっと涙したことでしょう。
浄土真宗に帰依し、豊後に帰ってきた小次郎は、出会いと別れを繰り返すことが初めから決定している現場、即ち「愛別離苦」の最たる現場である家族の営みの中に、阿弥陀様のお法を聞く道場としてお寺を再出発させたのでした。
これが浄土真宗としての妙蓮寺の始まりです。
このような背景から、妙蓮寺のご門徒は蓮如上人のお手紙を集めて編集された『御文章』を代々大切にされていました。本願寺は御門主が代わる際に、その名を記した御文章を発行していますが、特に印刷技術が発達した第十四代寂如上人(1651~1725)の頃には、全国のご門徒に『御文章』が広まりました。
妙蓮寺のご門徒の中には、この寂如上人の名が記された御文章が、今でも比較的多く見られます。さらに、一代前の第十三代良如上人(1613~1662)や二代前の第十二代准如上人の御文章も、僅かですが妙蓮寺ご門徒宅に存在します。これは全国的にも珍しく、大変貴重です。
これらのことから、妙蓮寺ご門徒のご先祖方は室町時代より始まり、江戸時代の初期にはすでに御文章を京都の御本山より拝受され、お念仏に生きておられたということが分かります。御文章が存在したということは、当時すでに家族の中心には、阿弥陀様のお仏壇が安置されていたに違いありません。
室町時代より約550年、いったい何人もの方々がお仏壇の前で結婚式をあげ、子や孫の誕生を慶んだことでしょうか。また、どれほどの方々がお仏壇のある家で歳を重ね、阿弥陀様の前で看取りが行われ、涙ながらにも両手を合わせ、葬儀や法事を営まれて来たことでしょうか。
家族の出会いから、命尽きる最後の最後まで、一貫して阿弥陀様の前で生きてこられたご家族、ご先祖の姿が目に浮かびます。
ここで、一乗山妙蓮寺という名前のいわれを知って頂きたいと思います。
妙蓮寺の山号「一乗山」の「一乗」は、仏教全般において最も重要な言葉のひとつです。「一」は唯一無二、「乗」は乗物の意で、全ての者が迷いの六道を離れ、仏様と成らせて頂く、たったひとつの乗り物という意味です。
それが阿弥陀様の「あなたを仏様として浄土に生まれさせることが出来なければ、我も決して仏とはならない」と誓われた、ご本願が成就した証拠「南無阿弥陀仏」です。それは「我にまかせよ、必ず救う」という阿弥陀様のお喚び声となって今ここに届いているのです。
そこで親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」を阿弥陀様の大きな船に譬えられています。晩年のご和讃には、
「弥陀観音大勢至 大願のふねに乗じてぞ 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ」
と、お示し下さいました。つまり「南無阿弥陀仏」が私たちが必ず仏様として生まれ往くことのできる唯一の乗り物、「一乗」なのです。
天台宗の根本理念も「一乗思想」ですが、当時の天台宗は貴族や位の高い武士だけのものであり、在家や女性には冷たいものでした。そのことに深い悩みと矛盾を抱かれていた親鸞聖人は、20年にわたって命がけの修行に打ち込んできた天台宗比叡山を下り、阿弥陀様のご本願に生き、家族を持っての仏道、浄土真宗を歩まれたのです。
親鸞聖人は、お念仏のお救いを「誓願一仏乗」と示されています。仏様の救いを顕す「一乗」とは、阿弥陀様のご本願が成就した姿である名号「南無阿弥陀仏」にこそふさわしいと…。
妙蓮寺に保管されている蓮如上人の三幅の書
妙蓮寺の鐘楼
坂ノ市重要文化財昭和34年7月30日指定
大匠釘宮熊五郎(子)、釘宮喜五郎
共に臼杵藩稲葉候御用大工
親鸞聖人の歩みは、天台宗から浄土真宗に帰した妙蓮寺の歴史と重なります。
妙蓮寺の「妙」とは経典の言葉で、「この上ない最高の」「不可思議な」という意味であり、他に比べることができないこととして仏教では用いられます。
また、「蓮」は阿弥陀様の願いと、はたらきを顕しています。親鸞聖人は
『維摩経』を引用され、「蓮」のおいわれを、次のように顕されました。
「高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり」
蓮は泥には染まらず、美しい花を咲かせます。しかし、その根っこはどこに宿しているかと言えば、必ず泥の中に命の根を張ります。
つまり、阿弥陀様のはたらきの場所とは、清く正しく美しいところに用事があるのではなく、煩悩という自己中心性から離れることができず、地域社会、家族の中に生き、仕事をし、出会いと別れを繰り返しては慟哭する、私たちの悲しみや苦しみ、どろどろとした真っ暗な心にこそあるのだと示されたのでした。
即ち、今私達が称えるお念仏の一声一声とは、阿弥陀様そのものなのです。この真っ暗な心中深くに宿って、一声一声「なんまんだぶ」とお念仏となって顕れ出てくださっているのです。
浄土真宗の根本聖典の一つ『観無量寿経』には、お釈迦様(親鸞聖人は無量の仏様方も含まれる)の言葉として、
「もし念仏せん者、まさに知るべし、この人はすなわちこれ人中の分陀利華なり」
と示されています。
「分陀利華」とはインドの古い言葉であるサンスクリット語で、「プンダリーカ」の音写語であり、白蓮華を指します。私たちが親しい『正信偈』に、親鸞聖人は示されました。
「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏(お釈迦様と無量の仏様方)、広大勝解のものとのたまへり。この人を分陀利華と名づく」
思い通りにならない人生の中で、悲しみや苦しみは変わらねども、その中にこそ阿弥陀様のお慈悲を聞き、お念仏申して精一杯に生きる私たちを、お釈迦様をはじめ無量の仏様方は、「あなたは白くて美しい白蓮華のような方であります」とお誉めくださっているのです。
浄土真宗に帰して550年、ちょうど泥中に咲く白蓮華の如く、私たちのご先祖様は、生老病死、愛別離苦といった苦悩の現場の真只中にお寺を建て、家族の中心にお仏壇を安置されてこられました。
室町時代に浄土真宗へ帰依し、江戸時代の初めにはそのお寺を「一乗山 妙蓮寺」と名告り、ご門徒と僧侶が一体となって、阿弥陀様のご本願のおいわれ、お念仏のおいわれを聞く「聞法の道場」として、今日までお寺を護ってこられたのです。
なお、妙蓮寺は臼杵藩であった関係から、お寺から離れた臼杵(松ケ岳・ 佐志生)、家島といった地域にご門徒が多くおられます。
臼杵にある佐志生のご門徒は、暮らしの中心に、もっと身近に阿弥陀様のお話が聞きたいと願われ、妙蓮寺の支坊として説教所を建てられました。当初は佐志生の藤田地区にあった説教所は、明治31年3月、篤信のご門徒のご尽力によって目明地区に再建されました。今も毎月10日には法座が開かれ、お彼岸、報恩講の御法座に、佐志生のご門徒方のお参りが多くあります。
お寺を取り巻く環境は、とても厳しくなっています。
妙蓮寺の御法座の数も、参拝者も、残念ながら年々減ってきています。ご門徒も、お子さまやお孫さまが都会などで遠く離れて暮らされている方も多くなりました。それに伴って、独り暮らしのご門徒宅にお参りに行くことも増えています。
それでも毎月毎月、暑い日も寒い日もお仏壇を丁寧にお荘厳し、一緒にお勤めをされるご門徒の姿勢に励まされます。法座ごとにお寺に足を運び、熱心に阿弥陀様の御法りをお聴聞くださり、嬉しい時も、悲しい時も、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏を申されているご門徒も、沢山いてくださいます。
また、夏に行っている一泊の子ども会(夏のキッズサンガ)では、妙蓮寺の仏教婦人会や仏教壮年会のご門徒がお手伝いしてくださるおかげで、毎年30~50人ほどの子ども達が本堂に集まります。子ども達は手を合わせてお経やお念仏を称え、阿弥陀様のお話を真剣に聞いてくれています。本堂で寝泊まりをして、食前食後の言葉を唱和して食事をいただき、お風呂や人形劇、流しそうめん、キャンプファイヤーなどを通して、学校を超えた友達の輪が出来ているようです。
さらに若い方も、お子さまとの死別や様々に起こり得る人生の悲しみ、苦しみ、悔しさを通してお念仏申し、阿弥陀様のお話を聞いて涙してくださる方も少なからずおられます。死別の悲しみだけでなく、子や孫が誕生した、入学や卒業をした、成人した、結婚したと言っては、お仏壇のお花を入れ替え、お灯りとお香、そしてお仏飯をお供えして合掌し、お念仏申されておられるご門徒も数多くおられます。
その時に合わされたおひとりおひとりの両手には、そしてお念仏の一声一声には、阿弥陀様、お釈迦様や無量の仏様方、親鸞聖人、蓮如上人、さらには代々の住職や皆さまのご先祖の願いの全てが集約され、顕れ出た姿があります。
今後もご門徒の皆さまと共に、お念仏申し、法灯を護り続けてまいります。
以上、もっと書き記しておきたいことは多くありますが、今はこれほどに致します。
平成二十九年一月十六日
(親鸞聖人御命日)
令和元年十一月三日(加筆修正)
文責 妙蓮寺住職 蓮谷 啓介(釋 啓生)
『妙蓮寺山門過去帳』
『木仏之留 御影様之留』『西光寺古記』『豊後国諸記上』
本願寺資料集成
『松林山端坊の歴史』 山口県萩市端坊編
『寺社考』寛保元(1741)年二月、
臼杵藩士 大田 六郎兵衛 重澄著
『温故年表録』 臼杵藩士 加島 弥平太英国著
『豊後国志』 岡藩士 唐橋 世済編纂
『臼杵小鑑大全』臼杵城下八坂神社 鶴峰戊申編纂
江戸後期の国学者
『宗意安心問題講述』雲山龍珠和上著
『白水郎』「小佐井地区の寺院」
御門徒 内田 忠清・内田 昭義寄稿
『歴史散策と家島考』 御門徒 三浦 正夫著
『大分県画人名鑑』 他