世の中の人を仏になさんとて
仏は人と生まれきにけり (正聚坊釋僧純師/江戸末期の浄土真宗の学僧)
娑婆の世に生きる私を、お浄土に生まれさせ仏様と成らせようと、
阿弥陀様が親鸞聖人の姿をとり、厳しい90年の人生を歩んでまでお念仏に生きる姿を見せてくださったのか・・・
と感動をもって詠まれたのでした。
僧純師は、本願寺20世ご門主である広如上人の命を受け、親鸞聖人降誕の地(京都市伏見区日野)を特定されたお方です。
京都市伏見区にある日野誕生院は、親鸞聖人が誕生され、幼年期をすごされたゆかりの地です。
平安時代の様式による堂内には、ご本尊及び、聖人の父である日野有範の木像がご安置されています。また、日野誕生院誕生会(5月21日の数日前)では、聖人の童形の絵像が奉懸されます。
境内には、聖人ご誕生の際に使用されたと伝わる「産湯の井戸」と「えな塚(へその緒を納めた塚)」があります。(本願寺ホームページ)
(ちなみに京都市伏見区は住職の出身地でもあります)
親鸞聖人は、幼少期にお母さまに先立たれ、9歳にはお父様やご兄弟と生き別れになられます。
これは、前年頃から続いた干ばつと源平の戦の影響などによって、都では食べる物が手に入らず、未曾有の大飢饉(養和の大飢饉)に見舞われたことが影響していると考えられます。
これにより、都の横を流れる鴨川の河原は遺体で埋め尽くされ、足の踏み場もないほどでした。
また、当時の4月、5月の2ケ月間で、都の2分の1(南北は5.3㎞・東西は2.2・3㎞)にあたる左京で、土塀などの横に放置された遺体は、なんと42,300人を超えたと、方丈記(鴨長明)に記されています。
そのような大災害のなかに独りになられた親鸞聖人でしたが、その悲しみ、苦しみ、寂しさ、悔しさが縁となって、僧侶となり、仏様のみ教えのなかにその解決を求めることを決心されたのでした。
もしもこの時に、別離の悲しみや寂しさに押しつぶされ、仏道を歩むお覚悟をなされていなかったなら、ここに浄土真宗も妙蓮寺も、そして合掌し、お念仏申して生きる私たちの姿もあり得なかったのです。
僧純師の歌は、そのような有難さと慶びをもって詠まれたのでした。
今月5月21日(旧暦4月1日)は、そんな親鸞聖人がお生まれになった日とされています。
また、来年は親鸞聖人ご誕生850年にあたり、立教開宗800年(親鸞聖人が主著である『顕浄土真実教行証文類』の草案を書かれた年を浄土真宗のはじまりとする)にあたります。
コロナ次第ですが、妙蓮寺では来年4月に御本山(西本願寺)への御誕生850年立教開宗800年の記念法要へ参拝旅行を計画しています。
→親鸞聖人略年表(誤字脱字があります。折を見て訂正します)