「一切の有情(うじょう)はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟(ぶもきょうだい)なり」
(全ての生きとし生ける命は、幾たびも幾たびも生まれ変わるそのなかで、親子や兄弟や姉妹となっているのです)
『歎異抄』第五条
『歎異抄』は仏教書のなかで最も広く読まれている書物といわれていて、様々な言語に翻訳されている世界的な書物です。
親鸞聖人の弟子であった唯円坊が、親鸞聖人の在りし日の姿や言葉をもって、ご法義とそれに生きる同朋を護りたいとの思いで著されたと言われています。
※歎異抄は多くの翻訳や解説書があるだけに、本願寺出版社の本が安心です。 下に紹介する三冊以外にもいくつか種類があります。
さて、そのなか第五条は、
煩悩を断てず、自らの命も救えない私たちが、お念仏を称えたところに清浄なる功徳を認め、それを先立った父母や誰かのもとへ回し向けて救おうとする「追善(追加善根)供養」は、決して成立しないことを親鸞聖人が仰せになったというお話です。
その理由として、
全ての生きとし生ける命は、幾たびも幾たびも生まれ変わるそのなかで、親子や兄弟や姉妹となっているのだから、阿弥陀様によって次の境涯には仏様と成らせて頂き、今生に縁の深かった父母や大切な方だけでなく、全ての命を分け隔てなく救うべきだと言われるのです。
また、お念仏は、阿弥陀様が永く迷いの世界に沈む有情(衆生)を「必ず救う」という功徳のありだけが届いているすがたであって、自分の力で作り上げたものでもないのだから、わがもの顔に誰かに回し向けるといった追善(追加善根)は成立しないことが理由として述べられています。
しかし、だからこそ阿弥陀様はいらっしゃるのです。
自ら仏様に成るだけの清浄な功徳を積むことも、誰かに善根功徳を追加していくこともできない者がここにいるからこそ「全ての命を救える仏になる」と誓われた仏様なのでした。
お経には、阿弥陀様の本願のお心は、地を這い空を飛ぶ小さな虫に至る全ての命に「我にまかせよ、必ず救う」と届いていることが示されています。
このことからも、お経が人間の考えから生まれたものではないことが良く感じられます。
山鳥のほろほろと鳴く声聞けば
父かとぞおもふ母かとぞおもふ
行基『玉葉和歌集』
国、主義、人種、性別・・・など様々に線引きをして物事を見る心を、良くも悪くも「分別心」といいます。
一方、そのような線引きを超えて、何よりも苦しみ悲しみに沈む者こそ真っ先に救わねばならないという仏様のお心を「無分別智(むふんべっち)」と言うのです。
今、分別を超えた阿弥陀様の願いのありだけに、多くの人達と耳を傾けたいものです。
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