今月の仏教婦人会の例会が開かれました。
依然コロナ感染が油断ならないなか、多くの方がお参りくださいました。
お寺をお預かりしている身として、住職、坊守にとって本当に心強く、婦人会の役員様にとっても嬉しく、有難いことです。
さて、今日は土曜日で学校がお休みのため、長男と次女もお参りをしてくれました。
長男には、梵鐘(ぼんしょう)と喚鐘(かんしょう)をお願いしました。
まだまだリズム、叩く間が今一つですが、少しずつ上手になってきたように思います。
※「梵鐘」 集会鐘(しゅうえしょう)ともいい、基本的には法要の30分または1時間前に撞(つ)きます。「法要が始まりますよ~、阿弥陀様や親鸞様、そしてご先祖様がお待ちですよ~」という思いで撞きます。
※「喚鐘」 「行事鐘」ともいい、法要開始の合図として直前に打ちます。喚鐘の喚は「喚(よ)ぶ」という字で、「呼」との明確な違いは「召す」「招く」「よびよせる」で、「注意を喚起する」というように、強い意志で大きな声で「よぶ」という意味があります。
ご本山の喚鐘を聞くと、身が引き締まると同時にもう2年も上山していませんので、懐かしい気持ちにかられます。
西本願寺 晨朝勤行の喚鐘風景(動画)
上の動画で、右のお坊さんは左の鐘を打つお坊さんに何か合図を送っています。
この合図は、お勤めされるご門主様やお坊さんが順番に出てこられ、全員が着座し、合掌するまでのタイミングを知らせています。
人数が多ければその分だけ喚鐘を打つ時間も長くなります。
西本願寺 朝の風景(動画)
喚鐘の後は、『重誓偈』をお勤め
続いて今日のテーマである『拝読 浄土真宗のみ教え』の「お喚び声」を唱和し
住職の法話を聴聞しました。
今日の法話は、「南無阿弥陀仏って何?」をテーマにしました。
「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様のお喚び声」です。
親鸞聖人は「呼び声」ではなく、喚鐘の「喚」という字をお使いです。
すなわち、阿弥陀様は迷いながら右往左往して生きている私たちに、強い意志で大きな声で招き喚んでおられる声が「南無阿弥陀仏」なのです。
その、南無阿弥陀仏の意味はというと、
「我にまかせよ、必ず救う」
「我にまかせよ、独りじゃないぞ。いつでもどこでも一緒だよ」
「我にまかせよ、抱いて見捨てぬ(摂取不捨)仏であるぞ」
「我にまかせよ、必ず浄土に生まれさせ仏様とするぞ」
「我にまかせよ、さよならじゃない、また会える命になるんだよ」
・・・
などといった声(言葉)でありました。
お念仏は、願いごとを叶える為に称えたり、無病息災を祈るといった呪文ではありませんでした。
また、称えれば称えるほど救われやすいといった「救いの条件」でもありません。
いつ、どこで、誰が称えても、その意味は「阿弥陀様の私に対するお喚び声」が第一番目の意味なのです。
人ひとりが生きていくなかでは、財産、健康、愛情などなど・・・願っても求めても叶わないことでいっぱいですね。たまたま叶っても永く続くことはあり得ないのです。
個々それぞれ、抗えない現実と心をもって私たちは日々生きています。
それは、『仏説無量寿経』に「世間愛欲のなかにありて、独り生まれ独り死し、独り去り独り来る。行に当たりて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれをうくるに、代わるものあることなし」とお釈迦様がお示しになられた通りです。
縁によっては、誰にも代わってもらえない、誰にも分かってももらえないといった苦しみや悲しみを抱えて生きているのが私たちでした。
その孤独の真っただ中に、阿弥陀様は飛び込んで、「我にまかせよ、必ず救う」「我にまかせよ、独りじゃないぞ」「我にまかせよ・・・」とご一緒くださるのです。
お念仏に、南無阿弥陀仏に出遇えて良かったですね。
どうか、寂しいとき、苦しいとき、辛いとき・・・お念仏を申されてください。
その時に聞こえる声は、自分の声でありながら、そのままが阿弥陀様のお喚び声なのでした。
われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 弥陀(親)のよび声 (原口針水和上・1808年~1893年)
【原口針水】
幕末・明治前期の浄土真宗の僧。肥後(熊本県)山鹿郡内田村光照寺に生まれる。筑前(福岡)万行寺の曇竜について真宗学を学んだ。文久2(1862)年、長崎へ赴き宣教師よりキリスト教を学ぶ。明治17(1884)年、西本願寺第22世大谷光瑞(門主)の真宗学指南となる。同24年、西本願寺の大学林(現在の龍谷大学)の規則変革に伴い、学林総理事務取扱に就任する。仏教に限らない幅広い知識をもとに、神道をはじめ仏教諸宗の学者と論争して真宗学の高揚に励んだ。(コトバンクより)
み仏を よぶわが声は み仏の われをよびます み声なりけり (甲斐和里子師『草かご』・1868年~1962年)
【甲斐和里子】京都女子大学の創設者の一人
明1.6.15~昭37.11.27
西本願寺の要職にあった足利義山(和上)の五女として、広島勝願寺に生まれる。明治19年(1886)から3年間広島私立開成舎で学び、明治26年(1893)に京都同志社女学校英語専科に入学。以後、3年間にわたって在学した。明治32年(1899)には松田甚左衛門とともに、仏教精神に基づく教育を目的とした顕道女学院を創設した。翌明治33年(1900)には、その志と理念を貫くため顕道女学院を退き、夫・甲斐駒蔵とともに文中女学校を経営。明治43年(1910)に私立京都高等女学校の経営が西本願寺へ移されたことに伴い、その後は、本校教諭として昭和2年(1927)春まで勤務した。大正13年(1924)12月5日の貞明皇后行啓の際、本学園は皇后から「心の学校」という御言葉を賜ったが、その時、女子教育に情熱を傾けた和里子に対し、皇后は「よくやってくれた」というねぎらいの言葉をかけておられる。(京都女子大学HPより)
※夫の甲斐駒蔵は大分県臼杵市の出身で、画家。その縁で、妙蓮寺のある坂ノ市地区に住まれていたことがあるとご門徒からお聞きしました。
◎良ければ関連法話をご覧くださると有難いです。
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