浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

お知らせ

2021.10.21

本日は、仏壮の例会日でした。

第二回目となる聖典勉強会の日です。勉強会の後には今月末のグラウンドゴルフ大会についても話し合われました。

初めに「讃仏偈」をお勤めし、続いて会長あいさつ。

ちょうど昨日阿蘇山が噴火しましたが、ご出身の大分県竹田市は昔から阿蘇山が噴火する度に灰が飛んでくる地域だそうで、野菜などにかかるとやっかいだとお話されました。

勉強会のテーマは、前回に続いて「阿弥陀如来」です。

もしも早く進んだらと思い、関連テーマとして「南無阿弥陀仏」のレジメも準備しましたが、住職の時間配分がまずく(話が長く)結局前回のレジメまでしか使いませんでした。

良かったのは、最後にご門徒が質問くださったことです。

質問の内容は 「阿弥陀様は実在するのか?」

この問いは、一度は考えたり、頭をよぎったことがある方も多いのではないかと思います。

「実在」や「存在」の言葉の解釈にもよりますが、ご質問は歴史上におられたかそうでないかというニュアンスが強いように感じられましたので、お釈迦様は歴史上に実在した方で、阿弥陀様はお釈迦様が教えてくださった「はたらきの存在」ですとお答えしました。

「はたらきの存在」とは「力の存在」です。

学生時代、「物理」の時間で「力の定義」を習いました。

難しくてあまり好きではありませんでしたが、力とは「物体の状態を変化させる原因となる作用」のことです。

つまり、力は何かを変えたり、動かしたりするはたらきに名づけるのです。

その力そのものは目には見えません。

でも、何かを動かすところにその存在ははっきりと知ることができます。

例えば「風(力)」は、草木を揺り動かしたり、大きな風車を回して発電させるところにその存在は明らかに知られます。

では、阿弥陀様の力とは、何を動かすのでしょうか。

それは、私を仏道へと動かし、仏果(仏様に成ること)へと変えなすのです。

具体的に考えると、お寺に参らなかった私をお寺に参らせ、手を合わすことを知らなかった私の手を合わせしめ、お念仏することがなかった私にお念仏を称えせしめているのです。

そして、娑婆という迷いの世界より、お浄土というお覚りの世界へと生まれさせてゆく力、はたらきです。

それを「本願力」といいます。

阿弥陀様が「全ての命を仏様にすることができなかったら、我も仏の覚りを決して開かない」という本願を成就されたところに「力」が生まれたのです。

その力は、水が高いところから低いところへ流れる道理の如く、覚りの世界であるお浄土より、自ずと迷いの世界で苦しみ、涙する私たちのところへ至り届き、救わずにおれないとはたらいていたのです。

私たちは、無色透明な風を絵に描くとき、木の葉が舞っていたり、カーテンが揺れているなどといったすがたで表します。

つまり、目に見えない力を、はたらいているところで表したのです。

同じように、阿弥陀様は目に見えないご自身の存在を、いかに私たちに告げることができるだろうかと思われたのです。

それが「我にまかせよ、必ず救う」という南無阿弥陀仏のお喚び声なのです。

その喚び声に、救われる救われないの心配、不安が晴れて安心し、歓ぶ心が信心であり、それをまた声に出しては聞いて慶ぶのがお念仏なのです。

また、礼拝であり、読経のすがたでもありました。

つまり、目に見えない阿弥陀様の力が、この私にはたらいているところで表されていたのです。

さらに、私達の先輩方、ご先祖方は、目には見えないけれど、私の心を動かし、身体を動かしはたらいている阿弥陀様やお浄土のすがたを、本堂のお内陣やお仏壇の形として表してきたのです。

子や孫に、阿弥陀様がご一緒くださること、また会えるお浄土があることを姿、形で表してくださっていたのでした。

そして、もう一つ。

親鸞様は、お釈迦様がこの世にお生まれになった理由は、阿弥陀様のはたらきの存在を告げる為であったと慶ばれています。

例えば、「引力」という力、はたらきは目には見えません。しかし、りんごが地面に落ちるところに、引力の存在を発見し、世界に知らせてくれた人がアイザック・ニュートンさんです。

ニュートンさんがヨーロッパに蔓延するペストの際、自宅待機中にりんごが木の枝から落ちる様子を観察して「万有引力の法則」を発見したと言われています。

しかし、引力はニュートンさんが発見する前から存在し、はたらき通していたはずです。

ニュートン林檎の木

同じように、阿弥陀様の力、はたらきもずっと存在し、はたらき続けてきたのです。

親鸞聖人は、それを「自然(じねん)」という言葉で示されています。

阿弥陀様のお救いのはたらき「本願力」は、私たちのはからい(例えば有無などの思慮分別)によって存在するのではなく、本来的に阿弥陀様の私たちを必ず救うというお心通りにはたらいていることを慶ばれているのです。

また、このような阿弥陀様のお救いを「法則」とも示しておられます。

法則というのは、初めから私たちの思慮分別に関わらず、本来的にはたらいている阿弥陀様の力のことだと仰るのです。これは『一念多念文意』という1257年に書かれたお書物にお示しで、ニュートンさんが万有引力の法則を発見した1665年より、408年も前のことです。

お釈迦様が真実の覚りを発見し、阿弥陀様の本願の力、はたらきをお説きくださってからは約2165年後のことでした。

実は、この阿弥陀様の「本願力」の存在、つまり「自然の法則」を、お釈迦様がこの世に出られて私たちに教えてくださったのです。それがお経なのです。

このように阿弥陀様のお心を味わっていくと、もうどこか離れたところに阿弥陀様の存在を探すことはなかったのですね。

喜びにつけ、悲しみにつけ、手の合わさるところに、「なんまんだぶ」とお念仏が称えられるところに、阿弥陀様がはたらきとなってご一緒くださることが知られます。

動いたという結果には、必ずそうなさしめた力が加わったという事実が備わっているのです。

動いてから力、はたらきが届くのではありません。動いたという事実には必ず力、はたらきが届いているのです。

そう言うと、自分で手を動かしただけ、口を動かしただけじゃないか、という方もいらっしゃいます。

しかし、鶯が一声「ホーホケキョ」と鳴いた時、鳴こうと思ったのは鶯かもしれませんが、そのように思えた背後には春という目にはみえない暖かなはたらきが届いているはずです。

同じように、お寺に参ろう、手を合わそう、お念仏申そうと思えた背後には、阿弥陀様という目にはみえない温かなはたらきが届いているのです。

そのように慶ばれたのが親鸞聖人であり、日々お念仏のなかに生きてこられた私たちの先輩、ご先祖方なのです。

このように阿弥陀様のお心を聞いてゆくと、

帰ってゆかれるご門徒の一歩一歩の足取りにも、阿弥陀様が「ここにいるぞ」「独りじゃないぞ」とご一緒くださることが味わえてまいります。

例会後の雨上がりに、秋の訪れを感じつつ、住職として皆さんと一緒に阿弥陀様のお話を聞く喜びを感じています。

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