ご本山の月刊誌『DAIJO』(大乗)8月号に、ご門徒の伊東さゆりさんの短歌が掲載されました。
私が知る中では、これが2回目の快挙です。
なんとも、住職冥利につき、とても嬉しく思いました。
ただ、こんな時は有頂天にならずわが身(住職)に向かって注意を促すべきなのです。
それは、作者の胸底深くに響いたのは「法話」であって、「私の話」ではないということです。
若輩の私が、人生の先輩である作者の闇を本当に知られるはずもなく、そんな「私の話」に力があるはずがありません。
人知れぬ作者の闇を本当に知られるのは、阿弥陀さまです。
阿弥陀さまは、誰にも代わってもらうことも、時に誰にもわかってもらうこともできない心の闇に胸を痛めて、常にご一緒くださる仏さまです。
住職、僧侶はそんな阿弥陀さまのお心を、親鸞聖人が教えてくださった通り、間違いなく語ること、それが「法話」であり、「教えを説く」と書いて「お説教」なのです。
ですから「法話」や「お説教」のことを、古来より「お取次ぎ」とも「ご讃嘆」とも言い慣わしてきました。
阿弥陀さまのお心を、自分の考えを差しはさむことなくそのまま「取り次ぐ」こと。
阿弥陀さまのおはたらきを、そのまま「ほめ称える」こと。
それが、本来の浄土真宗僧侶の姿であり、読経も法話もこの意味で勤めるです。
とはいえ、そうであるからこそこの度の作者の短歌は、住職としてとても嬉しいのです。
なぜなら、阿弥陀さまのお心とおはたらきが、住職としてお預かりしているご門徒に届いていることを知ることができたのですから。
短くはない法話で、聞き手を飽きさせないこと、集中力を高め、聞きやすくするなどの努力は大切です。
でも、相手の反応を気にしすぎて、涙や笑いや理解ばかりを求めるのではなく、取り次がれる「法」にこそ心の闇を破り、胸底に響く力があることを忘れてはならないのです。
そのことを、あらためて教えてくださった伊東さんの歌でありました。
朝夕は、だいぶ秋らしくなりましたね。
間もなくお彼岸です。
阿弥陀さまのお心を、彼岸にわたった先祖の想いを、一緒にお聞きいたしましょう。