つい先日、お説教先のご住職が佐賀らしい景色を空き時間にと、ご紹介くださり立ち寄りました。
広大な干潟は、白い砂浜ではなく黒い泥浜ですが、ムツゴロウやシオマネキなど多種多様の命を育みます。
干潟の先には、佐賀県南部の多良岳や長崎県の島原半島が望めます。
泥といえばお経に、
「譬えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にすなわち此の華を生ずるが如し」(維摩経)と示されています。
親鸞聖人は、これを
「淤泥華といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり」(入出二門偈)
と慶ばれました。
蓮は清らかで美しく泥には染まりませんが、常に泥の中に根を張ります。
それを、阿弥陀さまが高原の様な清く美しい所ではなく、泥沼の様な真っ暗で汚れた煩悩の心にこそ、はじめから入り満ちてくださることに喩えられたのでした。
煩悩の泥で埋まった私の心。これによって自他ともに傷つけ、解決し難い苦悩に沈んできたのです。
しかし、この光が届かない暗くて重たい命が、阿弥陀さまのおはたらきの現場だったのです。
泥によって育まれる命。泥によって咲く蓮華。
そして、泥のような私の命を見捨てることができず、これによって本願が仕上がり、覚りをひらかれたのが阿弥陀様でした。
今日もまた、阿弥陀さまがご一緒くださる煩悩と苦悩の真っただ中に育まれます。
この干潟の先には、阿弥陀さまのお浄土が望めます。
罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし(親鸞聖人/高僧和讃・曇鸞讃)