佐志生支坊御正忌報恩講法要、五日間六座がご満座を迎えました。
本日は、昼座を親鸞聖人のお通夜、夜座をお葬式に見立ててお勤めを致しました。
お焼香をし、親鸞聖人のご一生とそのご苦労が著された『御伝鈔』の拝読です。
今回は試みに、『御伝鈔』の現代語訳をコピーして、それを見ながらお聞きいただきました。
法話は、親鸞聖人ご苦労のエピソードの一端と、親鸞聖人が慶び伝え遺してくださいました阿弥陀様のお救いをお話します。
親鸞聖人が、 もしこの世にお出ましでなかったら、私たちは先立たれた方々を、お浄土に生まれ仏様に成られた命であったとご法事を勤めることはできませんでした。
親鸞聖人が、もし数多の悲しみのなかに阿弥陀様を告げてくださることがなかったら、老病死の現実にただただ涙するほかありませんでした。
ご先祖様が、あの親が、もし親鸞聖人のご苦労を偲び、阿弥陀様のお救いを慶んでこられてなかったら、
ここにお寺も、お仏壇もありませんでした。
手を合わすことも、お念仏をすることも、その意味を知ることもありませんでした。
親鸞様がこの世にお出ましになって良かったですね。
お法(みのり)を慶んでこられた多くの先輩方がおられて良かったですね。
どんなに抗えない人生であっても、阿弥陀様の願いのなかにお念仏申して生き、死んでゆける命でありました。
<おまけ>
今日は部分月食でした。太陽の光を地球が遮り、その影によって月が欠けて見えます。
私たちも日中に自分の影を見ることがあります。それは、太陽の光が届いている証拠です。
影は暗く、時に不気味なものですが、そこには必ず光が届いているのです。
光によって影が生じるともいえますが、逆にいえば影があるところには必ず光があるのです。
親鸞聖人は、阿弥陀様の光明に照らされた慶びを様々な表現であらわされておられます。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
「超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る」
「摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貧愛、瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆えり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして、闇なきがごとし」
「われまた彼の摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲倦きことなくして常にわれを照らしたまふといへり」
「常」はつねにといふ、「照」はてらしたまふといふ。無礙の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。
etc
私たちの悲しみや苦しみの影には、阿弥陀様が必ずご一緒くださっているのです。