例会の前に、来る御正忌報恩講法要の話し合いが、坊守、三役様を中心に行われました。
また、今回は配布物も多く、それを各地区の婦人会代表の方々がお持ち帰り下さいました。
法要一つ行えるのも、こうしてご門徒の皆さんのお力があってのこと…
皆様、ご多用の中本当に有難うございます。お世話をかけます。
今月の法話は親鸞聖人のご生涯の一端にふれ、阿弥陀様のお救いとは何かをお話致しました。
親鸞聖人は幼少期に母に死に別れ、未曽有の大飢饉によって父、兄弟と生き別れ、独りになられました。
その時に感じられた世の無常と命のはかなさは、いかほどであったでしょうか。
何の為に生まれてきたのか。何の為に生きていかねばならないのか…
大きな悲しみを縁として、その答えを仏教に求めていかれた、親鸞聖人九歳の春でありました。
この度の法話のご讃題は、
「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情を捨てずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」
親鸞聖人晩年の85・6歳の時に表された『正像末和讃』のなかの一首です。
悲しみを縁として歩まれた、親鸞聖人の仏道の結論、人生の慶びの極まりともいえる讃歌です。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情を捨てずして
阿弥陀さまが「全ての者を救う」というご本願をお建てになったおいわれをお聞かせ頂くと、苦しみ悩みの世界から一歩たりとも抜け出させない私を摂め取って決して捨てない(摂取不捨)ためでありました。
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり
ですから、一々の厳しいい修行ができたら救ってやる、とも、苦悩の原因である煩悩を少しは綺麗にすることができたら救ってやるとも言われませんでした。
私の過去を責めず、将来に条件をつけず、あなたの今の苦しみ悲しみが、我が苦しみ悲しみであると見られ、
あなたが変わることができないなら私の方から変わろうと大悲の心をおこし、自ら立ち上がり、私が願うよりも気づくよりも先に、南無阿弥陀仏の声となって常にご一緒くださる阿弥陀様と成られたのでした。
親鸞聖人は、晩年に「衆生」を新訳の「有情」に書き換えられています。
阿弥陀様のお救いを我事と聞き受けられた時、その訳語の方がふさわしいと思われたのでしょう。
有情とは、「感情を有する者」という意味です。私たちは、様々な縁のなかに、それぞれが誰にも代わってもらえない、時に誰にもわかってもらえないといった感情、愛情、事情を抱えて生きています。
縁次第で心が様々にコロコロと変わり続け、決して安心がありません。
その、どうにもコントロールの効かない心(情)を持って生きるがゆえに、物事を理路整然と受け止められずに「思い通りにならない」と苦しみ、悩み続けるご自身や私たちの姿を「苦悩の有情」と表されたのでした。
私たちは、理屈や科学で生きていません。
確かに科学の恩恵を受けて、それを使っては生きています。
また、理屈がなければ、日常の行動基準は混乱します。
しかし、例えば、大切な家族や友人の死に直面した時、「なぜ死んだのか…」と涙するのは、理屈や科学で生きていない証拠です。
日常が崩れる時、私たちは理屈や科学をもって事実を割り切れないのです。それを苦悩の有情というのです。
今、阿弥陀さまはその苦悩の有情が初めから目当てであると仰います。
物事を理路整然と受け止められず、苦悩のなかに涙して生きる現前の有情を見捨てることができない仏様なのです。
いよいよ今年も11月15日~19日までの5日間、佐志生支坊の御正忌報恩講法要が始まります。
そして、来月は12月9日~16日までの8日間、坂ノ市本坊で御正忌報恩講法要が勤まります。
特に、坂ノ市本坊では9日~14日の昼座で、親鸞聖人ご誕生から90歳でのご往生までのエピソードをお話しながら、法話をしていく予定です。
ぜひ、続けてお聴聞においでください。感染対策をして、皆様のお参りをお待ちしております。
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