昨日、お盆法要をお勤め致しました。
県内のコロナ感染者数が急増するなかで開催を悩みましたが、できる限りの感染対策を取り、
時短にて行いました。
法要は、本堂では『讃仏偈』、納骨堂では『重誓偈』をお勤めし、
ご法話は15分(少しオーバーし申し訳ありません)、お供え物のお下がりは紙袋にあらかじめ用意したものをお持ち帰り頂きました。
参拝者は例年に比べてかなり少なく、時短での開催ではありましたが、
ご門徒の皆さんと同じ本堂で一緒に仏祖を仰ぐことができました。
とても嬉しく、有難いひと時でした。
皆さま、お出にくいなか、本当にようこそご参拝くださいました。
この度はご参拝かなわなかった方も、諸事情が許せば、来月のお彼岸にはぜひお参りくださいませ。
また、8月から新しく来てくださった、法務員さんの摂受くんが自己紹介をしてくださいました。
短い時間で端的に、さらに笑いも入れて素晴らしいご挨拶でした。
布教使に向いているように思います。
先日、このホームページでご本人の自己紹介を載せておりますので、ぜひご覧ください。
さて、この度のお盆法話では親鸞聖人の『正像末和讃』を頂きました。
<ご讃題>
南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には 還相回向に廻入せり
(意訳)
阿弥陀さまが姿を変えて届く名号「南無阿弥陀仏」は、ご恩は広大で、思いはからうことができません。
それは、今ここに届いてくださってある「南無阿弥陀仏」には、
阿弥陀さまのほうからお浄土に生まれさせて仏様に成らせて下さる利益と同時に、
仏様と成ったなら、すぐさまこの世に還ってきて、仏様のはたらきができる利益までもが備わっているからです。
<往くも還るも南無阿弥陀仏>
つまり、「南無阿弥陀仏」には私たちの命の往く先と同時に、
還ってきての働き場所までもがワンセットになって示されていたのです。
そうすると、み教えに生き、すでに先立たれた、私たちのご先祖や両親や妻や夫、
それに子や孫、そしてひ孫たちは、お浄土に生まれて、仏様に成らせてもらい、
なんと私たちのところに還っては、仏様のおはたらきをくださってあったのです。
<いつでもどこでも>
死んで終わった命でも、迷いの世界に往かれたのでも、霊魂になったのでもありません。
実はお盆だけじゃなく、いつでも、どこでもずっとご一緒くださる仏様であったのです。
「独りじゃないぞ」「ここにいるよ」「あなたを私と同じお浄土に導いてゆくからね」と。
<お念仏のなかに>
2年続けてコロナ禍のお盆となりました。
家族や友人など、大切な方としばらく会えていない方も多いことでしょう。
私も2年、京都の実家には帰れていません。
ご門徒のなかには、コロナ禍により、会えずにじまいに今生の別れをされた方もありました。
どうか、 寂しい心のただ中に、
「南無阿弥陀仏」「なんまんだぶ」とお念仏申されてください。
その自ら称え、自ら聞く一声一声のお念仏に、
阿弥陀さまも、先立たれたあの懐かしい方々も、ずっとご一緒くださっていることが知られます。
往きしひと 皆このわれに還りきて 南無阿弥陀仏と称えさせます(伝・武内洞達師)